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座右の寓話 「キツネとクマ」

一人の男が持ちの中を歩いていると、ケガをしているキツネを見つけた。
狩人たちに追いかけられ、必死に逃げているうちに、足の骨でも折ったのだろう。
木の下に倒れているキツネは飢えて死にかけていた。

するとそこにハイイログマが現れた。
クマは殺した動物を口にくわえて、引きずっていた。
クマはキツネには目もくれない様子だった。
餌食になった動物を食べて、その場を去るとき、動物の死骸の一部をキツネのそばに残していった。

翌日、男はまた森の中を歩いた。
この日もクマはキツネのそばに餌を残していった。
そして、三日目も同じことが起きた。
男はこれまで見たことに思いをめぐらせた。
「もし神が傷ついた一匹のキツネのことを心にかけておられるら、私のこともお忘れにならないだろう。
このキツネのように神の愛を信頼し続けよう」
男は森の片隅にひざまついて祈った。
「父なる神よ、何が起ころうと、あなたを信頼し続けることを、この傷ついたキツネが教えてくれました。
わたしも、あなたに心からおすがりします」
男はそこに身を横たえ、神が何かしてくださるのを待つことにした。

一日が経過。
何も起こらなかった。
男はお腹がすいてやりきれなくなった。

二日目が経過。
何も起こらなかった。

そして三日目が経過。
やはり何も起こらなかった。
男は腹をたてた。
「神よ、あなたはあのキツネを私より愛していらっしゃるのですか?私があなたを信頼しているのに、
あなたは私を省みてくださらない。なぜ、私に食べ物をくださらないんですか?」

男は森を出て、町に戻った。
通りを歩いていると、お腹をすかしている貧しい子どもに会った。
これを見た男は神をののしった。
「神よ、ひどいではありませんか?なぜ、このあわれな子どもに何もなさらないのですか?」
「私は何かをしたのだよ」。
神様の声が聞こえてきた。
「私は、あなたを人間として創造した。だが、私はあなたに失望している。
あなたはあのクマを見習うこともできたのに、あのキツネのようにあり続けようとしている」

【あなたは他者の為に何ができるのか】

森の中で男が見たのは、ケガをしたキツネがクマに食べ物を貰う光景、
逆にいえば、
クマがケガをしたキツネに食べ物を与える光景だった。
これを見た男は、自分がケガをしているわけでもないのに、クマではなくキツネになろうとした。
お腹を空かしている男は、神様が何かをして下さるのを待った。
しかし、何も起こらなかった。

腹を立てた男は町に戻った。そこで見たのは、お腹を空かせている子どもたちだった。
男は、その子らに手を差し伸べようとはしなかった。
神様が子どもたちに何かをしてくれるのを待つだけだった。
しかし、神様は手を出さなかった。
こういう男の態度に神様は失望した。
お前はクマを見習うこともできた。
しかし、そうしなかった。
与えることができる立場にいるのに、与える側の人ではなく、与えられる側の人であろうとした。

この話の教訓は「与えれられる人になろうとするな。与える人になろうとせよ」である。
この話を聞くと、「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが、
国の為に何をできるかを問うて欲しい」という名言を思い出す。
これは、
一九六一年にジョン・F・ケネディが第三五代アメリカ合衆国大統領に就任した際の演説の一部である。

足りている人が足りていない人に何かを与える場合、二つの流れが存在する。
一つは住民の納めた税金が国や地方自治体によって再配分される流れ。
もう一つは個人による寄付の流れ。
前者は正義に関することである。
正義とは社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持することであり、これは政治と関わりが深い。
一方、後者は心の広さという道徳に関係する。

「正義と心の広さとは、いずれも私たちと他人との関係に関わる。
だが、心の広さの方がいっそう主観的で、個人的で、感情的で、自発的であり、
それに対して正義にはいっそう客観的で、普遍的で、知的で、思慮深いところがある」

日本には寄付文化が根付いていない。
言うなれば、圧倒的な寄付後進国である。
「AERA」に掲載された記事「税金で十分貢献 生活に余裕なし」によれば、
二本の二人以上世帯の年間平均寄付金額は平均三四〇三円にすぎない。
「CAF WORLD GIVING INDEX」の世界寄付ランキングでは一四五ヶ国中一〇二位で、
先進国の中では圧倒的な最下位である。
寄付者の数も東日本大震災のあった二〇一一年の七〇二六人をピークに右肩下がりだ。
何が私たちを寄付から遠ざけているのか。

「日本は”公共”は国がやるものだという意識が根強く、納税で社会への責任を果たしている
と思っている人がほとんどです」とのことだ。
元来、日本人は身内やお客様にはたいへん親切である。
しかし、その一方で他人には無関心であり、
ことに社会的弱者(ベビーカーを押すお母さん、妊婦、障がい者、高齢者)には冷たい。

外国の町を歩いている時、
いくら無愛想で恐ろしい顔をした若者でも、社会的弱者を見ると先を争って手を差し伸べる姿を目にする。
日本を訪れる外国人に日本人が親切なのはお客様だからだろう。

まとめると、
「心の広さ対極にあるのは利己主義」である。
利己主義は根強く、心の広さはか弱い。
だから、私たちは基本的に利己主義者として生活している。
しかし、だからといって、利己主義者だけの存在ではない。
いつも心の広さを発揮することは無理にせよ、時に心の広さを示すことはできる。
広い心とは気前の良さに通じる徳である。
気前のよさとは、けちと浪費の中間に位置する。
広い心で気前のよい行動をするとき、
人間が本性として持っている利己主義から私たちはしばし解放される。

与えられる側から ⇨ ⇨ ⇨ 与える側に
利己主義から ⇨ ⇨ ⇨ 利他へ
けちと浪費から ⇨ ⇨ ⇨ 気前のよさへ

経済の側面からも、
寄付文化が根付いているアメリカ合衆国と、
寄付文化の圧倒的後進国である日本国では発展(経済成長)に大きな差がある。

アメリカは、いわゆる成功者と言われる多くの人が寄付をし、次の世代を育てている。
(ビルゲイツもザッカーバーグも財団創設、次の世代を育成している)

日本は、個人の富裕層も、企業も内部留保しか考えていない?のでは。
(稲盛さんのように、そうでない人もいるが・・・)


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